二胡学習と考級について考える

「考級」というのは、グレード試験のことです。中国語で「考試」といえばテストのことで、「考」には確かに「考える」という日本語と同じ意味もありますが、中国語ではその意味よりも実力等を「試す」という意味が強い言葉です。

大人でも子どもでも純粋に「励み」として受ける方もいると思います。
また、外国人で受ける方は、将来、本国に帰った時に勉強したという証拠として残したいのかなと思います。

しかしながら、二胡の考級に関して思うのは、結局、X級受かりましたと言っても本当の実力は分からないのでは?ということ。
といいますのは…各校の試験によって、曲の配置が違いますよね…
譜面だけ見ると、ぱっと見ただけではさほど難しくなさそうなものがかなり高い級に入っていたりもします(おそらく、こういうものは、技術の正確性というより、表現力を評価するのでしょうか???)
それから、下記のような文章を読むとうーむ、と思うのです。
民族楽器の場合、西洋楽器の教育課程とは違って、まだ、きちんと体系化されてない、あるいは学者によって見解が分かれる部分が多いのかなぁ???

なぜ、考級教程は二胡学習の標準テキストとして使用すべきではないのか?
考級教程は考級活動の特徴に基づき、異なる難易度の練習曲と楽曲がこれに対応する級別に収録され、試験の要求を満たしています。それは、二胡教学の教程に基づいて編集されたわけではないので、訓練のステップ又は練習項目及び練習量のいずれから見ても、二胡学習の必要性を満たすことができません。もし考級の教程を二胡学習の標準テキストとして用いたならば、学習過程において訓練の穴を多く残すことになり、最終的に演奏レベルの「生煮え」状態を引き起こすことになるでしょう。このようであれば、たとえ考級教程に定められた練習を完成させて相応のグレード証書を取得したとしても、二胡学習者にとっては、意味のないことでしょう。
「二胡演芸」趙寒陽 人民音楽出版社 30頁

ちなみに、龍海先生(仮名。わたくしの一人目の二胡の先生)も似たようなことを言っておりました。
「単に証書が欲しいだけだったら、お前だったら、数か月で「良宵」、半年で「賽馬」くらい弾けるようにしてやるよ。でも、それだと多分、技術的に穴だらけになるし、その先の成長の見込みが全くないようないい加減な出来上がりになるんだよなぁ。そのあと、しばらく二胡弾かずにいたら、すぐゼロに戻るような感じ?結局、基礎からやり直さないといけなくなるだけだから時間の無駄かもなぁ。」

ははは、当時、半年で賽馬?ウソだろ、冗談きついよと思いましたが、「生煮え」でいいなら、器楽経験者など、可能な人もこの世に存在するのだろうなと思う今日この頃です(わたくしには無理ですが…)。
龍海先生も経験なくそんなことは言わないでしょうから、そういう要望に応えて速成させた学生さんがかつていたのでしょう、多分。

実際、系統的に練習してこなくても人前でそこそこ拍手をいただける舞台を務めることができるようになる人もいますよね。
でも、そういう人が音大の試験に通るのかというのはまた別問題なわけで…

例えば、趙寒陽が中学二年のとき、劉逸安先生(自分は文革のために上海音楽院の入学通知を取り消されてしまい、その後は自分の果たせなかった夢を弟子を育てることで実現しようとされた)に会わなかったら、多分、中央音学院の試験にパスするということはなかったのではないでしょうか。

それでまでの寒陽先生の先生はどうやら系統的に教えてくれる先生ではなかったようです。
寒陽先生が弾いた「良宵」「病中吟」を聴いて劉先生はまず「あなたの歩いている道は間違っていますね。このままだと、これで飯を食うことはおろか、有名になろうなんて夢のまた夢ですね。例えば、君が弾いた「病中吟」の外弦第一ポジションの1と2の指の間は半音ですか、それとも全音ですか?」とお尋ねになって、その質問に対して寒陽先生は「分かりません…」としか答えられなかったそうです。
参考:「二胡情縁」趙寒陽 中央音楽学院出版社 90頁

8歳から二胡を一生懸命習ってきて5、6年、皆褒めてくれるし、自分でもある程度のレベルはあると思っていただけにショックだったみたいです。
この段階で、矯正していなければ、今の寒陽先生は存在していなかったってことらしいです。このような話をきくと、正規の道を歩いてこなくてもある程度にはなれるけど、基礎をきちんと系統的に積んできた人とは大きな差があるんだなってことが分かります。

もちろん、わたくしは速成で曲を弾くことが悪いとは思っていません。
ちなみに中国の公園にいけば、そこそこ弾ける爺さんはごろごろいます(^^;
大人が系統的に勉強しても、今さら音大に入れるわけでもなし、別にそれで飯食うわけでもなければ、必死になってやってもしょうがないじゃんということもありますよね。
曲を楽しく弾いて皆で楽しめればいいっていう大人は多いはず。
大人にせよ、子どもにせよ、二胡を弾く目的が人それぞれ違うわけだから、自分の目的に合っていればいいわけですよね。

わたくしは、一生、弾き続けたいし、可能であればこの世のものとは思えない音に一度くらい出会ってみたいので、かなり無理をして、あたしバカよね~おバカさんよね~と思いつつ、地道に今日も音階練習をひたすらしております(別にこの歌を弾いているって意味じゃないですよ、念のため)。
また、何年か後、上手くなったら、可能であれば誰かに教えてあげたいので、そのための信用獲得手段として、証書は欲しいとも思っております。

2 Responses to “二胡学習と考級について考える”

  1. くるみ より:

    長年中国で二胡を勉強しながら色々やって生活をされてた方が
    10級の考級を受けた時に課題を弾き終わった後で
    課題に無い「江河水」も弾く様に言われたそうです。
    サイトには
    「10級をとるんなら 江河水くらい弾きこなせて当然と思っているんだろう」
    と書いてありました。
    音の羅列を楽譜の通り指定の早さで弾ける事が重要なのではなく
    表現力を見ているんでしょうね。

    「下駄を履かせる」と言いますが
    入試等に間に合う様に先生が微に入り細にわたって
    生徒に課題曲を入れ込む事があります。
    これでは後で応用が聞かなくて 入学してから えらい目にあう事請け合いです。
    龍海先生も そういう後々の「音楽を奏でたい」って思った時の事を
    心配されてたんでしょうね。

    私も精進せねば。
    とりあえずは 今週木曜のレッスンに
    前回より何かが良くなっている様にしておかないと。(^o^;)

  2. 游鯉 より:

    くるみさん、こんにちは。

    すごい話ですね。
    全然、準備していない曲をいきなり弾け、ですか…
    まぁ、でも、中国だとあり得ない話ではないですね、という気がします(^^;

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